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無料美術館に行こう!日本西洋美術の父と呼ばれる「黒田記念館」

日本人は美術を専攻していなくても美術館に足を運ぶ人が大変多い人種だといいます。東京・上野には東京都美術館、国立西洋美術館、上野の森美術館、東京国立博物館、国立科学博物館、東京藝術大学大学美術館など美術館が特別多いのですが、無料のものはほとんどないでしょう。

その中で展示数は少ないけれど、無料開放している美術館が1つあります。
それは日本西洋美術の父と呼ばれる黒田清輝の「黒田記念館」です。

黒田清輝とは一体どんな人物なのか、ご存知でしょうか?

黒田清輝とは

黒田清輝は慶応2年 鹿児島市の裕福な家庭に生まれ、5歳の時に伯父の養子になります。その後は上京し、勉学に励み、東京外国語学校へ。今から150年以上前に、外国語を勉強し、フランス留学したほどですから、非常に裕福で、積極的な性格だったと察しられますね。

フランス留学では法律を学んでいた黒田清輝は、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、法律家になると思っていた養父母の大反対を押し切り、ナント画家に転向を決意してしまうんです!

当時の報告は手紙と言いますから、当時は両親もフランスに気軽にこれないと思って、好き勝手に進路変更してしまうヤンチャぶりが凄いですね、さすが未来の大物でした!

パリでラファエル・コランに師事し、積極性と養父母が心配していた頑固な性格が良いほうに開花して、現在の日本西洋美術の基礎を築いた人物なのです。

論争された裸婦像

9年間のフランス留学後、フランスで入選した全裸で立つフランス女性を描いた「朝妝」を日本で発表します。(戦時中に消失)

これは等身大の裸婦の絵画で、当時の日本では裸婦の絵は猥褻として受け取られ、春画と同様なものとして公表すべきものではないと論争され、芸術として認められないと声が高く上がったのです。

しかし、黒田清輝は裸体画の公開をめぐる、新聞の批判や、官憲による取締りを問題とせず「裸婦を受け入れられない日本に未来はない!」と裸婦の製作を継続。裸婦の下半身を布でおおって展示されるという、現在から考えれば非常におかしな事態も発生しています。

しかし、第2回白馬会展に、異なる裸婦女性像三面によって構成した「智・感・情」を発表。もちろん更に激しく批判されますが、さらに加筆し、明治33年パリ万博に日本代表として「裸婦習作」として出品され、銀賞を受け、世界に日本西洋画が受け入れられるという快挙を果たしました!!

面白いことにこの絵は幾つもの異色点があり、

1つ目は、「智・感・情」の体型は理想型を追求している。と言われ、当時の日本人女性の平均的なプロポーションは六頭身、しかしこの絵は、人体の美の理想として七頭身半で描いています。これはレオナルド・ダ・ヴィンチ の「ウィトルウィウス的人体図」の人体図の黄金比モデルと同じと言われています。

2つ目は、裸婦三人の感情です。「智・感・情は」理想主義(智)、印象主義(感)、写実主義(情)を象徴化したものと言われていますが、解釈は今なお議論が重ねられていて、黒田本人が説明したものではないのです。

3つ目は、大抵は背景が描かれていることが殆どであるにもかかわらず、この絵画は金箔地で無背景の「裸体像」。しかも人体の周りに赤い輪郭線と日本画の技法を取り入れていました。

もちろん日本ではまだまだ批判の声は高かったものの、今では当たり前のように裸婦画があるのは黒田清輝の存在があったからなのです。

模写から実物デッサンへ

東京美術学校教授になった際、当時絵画を学ぶ手法は「名画の模写のみ」という学び方を変更し、人物をどの角度からみても描けるデッサンへと学習方法に変更しました。これはフランスで学んだ手法で、名画の模写→石膏像のデッサン→裸体のデッサンと、西洋画の伝統的なメソッドに沿って変更されたと言われています。

「名画の模写のみ」という学習方法は、今では小学生でも考えられないでしょう。単純に考えて、それだけだと「贋作」に近い学習のようなものだったかもしれません。

無料開放された「黒田美術館」

上野国立博物館の横に静かに佇む「黒田美術館」は故人の意思により無料開放されています。これは亡くなる前に遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言し、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。

数は多くはありませんが、黒田清輝が好んで描いていた「女性」と「水」の組み合わせの絵画や旅先でのスケッチなどが展示されています。大規模な美術館ではなく美術を学ぶ人が通うという場所になりつつあり人もまばらですが、非常に重要な人物の美術館。

若い頃に美術を目指して方、美術館や博物館がお好きな方、機会があれば足を運んでみてください。

黒田清輝の経歴

1866年 鹿児島市で誕生。
1884年 フランス留学。
1893年「朝妝」がフランスの展覧会で入賞後、帰国。日本で美術教育者として活躍。
1894年 仲間とともに「洋画研究所天心道場」を開設。
1895年 「朝妝」を国内の展覧会に出展して論争を呼ぶ。
1896年 「白馬会」を発足。東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となる。
1898年 東京美術学校教授に就任。
1900年 白馬会展にて展示された「裸体婦人像」(静嘉堂文庫美術館蔵)が警察によって咎められ、絵の下半分が布で覆われる。
1905年~1920年 東京高等商業学校(現一橋大学)講師を兼務。
1910年 洋画家として最初の帝室技芸員に選出。帝国美術院院長就任。
1917年 子爵を襲爵。
1920年 貴族院議員就任。
1924年 尿毒症のため死去。

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矢藤りりか
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DINKS街道まっしぐらの人生を歩んでいるアラ還です。根はアホですが、OL歴が30年オーバーなのでアホを隠す方法を身につけました! 『定年後の最高の人生を送る為の4K』の記事によると、4Kは『経済力、健康、家族、生き甲斐』だそうです。ここでは皆さんの生き甲斐や解決のヒントとして手助けになる記事を書いていきたいと思います。